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展覧会Exhibitions

映画ポスターと社会・時代・文化展

1999.04.06 - 1999.04.13

開場時間
10:30〜18:30(最終日17:00)
休館日
水曜日
入場
無料
会場
京都精華大学ギャラリーフロール
協力
KENT COLLECTION、田中神社
主催
「映画ポスター」展実行委員会
ディレクター
西村美香 (京都精華大学美術学部非常勤教員)

概要

ギャラリーフロールで行なわれる1999年度最初の展覧会。 1950年代を中心に日本や欧米で公開された映画のポスター約45点を展示。ポスターから放たれるその頃の社会や時代、文化の空気を検証しようとする展覧会です。ディレクターは、京都精華大学美術学部非常勤教員、西村美香(デザイン史担当)。そして、豊富な映画広告のコレクションで知られる『KENT COLLECTION』のオーナー、田中 健氏に全面協力いただきました。
展覧会の最終日には、同氏による講演会も予定しています。

ディレクターより

映画自体が社会や時代を反映するものであり、文化を形作るものであることはみなさんご承知のとおりでしょう。そしてその広告もまた映画の内容を伝えるもののみならず、その時代や社会を反映するものであり、やはりまた文化を形作るものです。 今回は戦後まもない1948(昭和23)年から1960(昭和35)年の間に日本で公開された外国映画を中心に、そのオリジナルとともにポスター約45点を二部構成によって展示、紹介するものです。

 

<第一部>
欧米映画のオリジナルポスターと日本公開用ポスターの比較、
及び、日本映画のオリジナルポスターとアメリカ公開用ポスターの比較
<第二部>
1950年代日本公開のアメリカ喜劇映画のポスター

 

往年の映画ファンの方には懐かしいポスターではないでしょうか。 第二次世界大戦終了後の娯楽文化の流入が手にとるように見てとれます。戦後欧米、特にアメリカの文化がハリウッド映画を通して日本になだれ込んで来た現状がうかがえます。そして事実こうしたハリウッド映画を中心として映画産業は盛り上がり、1950年代日本の映画界は全盛期を迎えるのです。 筆者は、まだこのときには誕生しておらず、鑑賞していない映画も多数ありますが、それでもポスターだけを取り上げても、そのデザインそして印刷の技術に時代の雰囲気が感じられ興味深く思います。デザインに興味のない方々は印刷技術には関心を払われないかも知れませんが、例えば’SENTIMENTAL JOURNEY’ の ハリウッド・オリジナルポスターなどは写真製版を用いず(と言うよりはむしろ写真製版技術が未熟であったため)手描きで色分け版を起こしてゆく「描け版」の技術を用いて実にノスタルジックな美しい画面を演出することに成功しています。また第二部の喜劇ポスターの多くは写真版と手描き原稿をうまく組み合わせ、やはり手作業で色分け版に分版してゆく涙ぐましい努力で、印刷技術のハンデを乗り越えて楽しい広告を制作しようとする意気込みさえ感じられます。ワープロや写植機さえなかった当時の「手描き文字」の世界も注目していただきたいと思います。現代の映画広告とはずいぶん趣が異なっていることが感じられるでしょう。 また会場には新しいメディアとしての広告、「ビデオ広告」による1990年代映画の上映紹介もあわせて行っているのでお楽しみ下さい。 そして今回、京都精華大学のご支援とKENT COLLECTION(田中健氏所蔵)のご協力を得てこうした展覧会を開催できたことを感謝いたします。
            1999.4.6 西村美香
(京都精華大学美術学部非常勤教員、デザイン史)
アメリカ喜劇映画について
1945(昭和20)年、敗戦によって終戦を迎えた日本は戦後の食糧危機とインフレを抱えながら復興へと歩みを進めていました。
戦争中に厳しい統制を受けていた言論機関は、占領政治のもとで制約はあったものの発表の自由を回復し、それにともない映画の普及も著しく、戦後の世相に活気を与えていました。 ここに紹介する「腰抜け」「極楽」「ダニー・ケイ」「ブロンディ」「凸凹」はいずれもシリーズとしてアメリカで制作されたもので、日本では早いもので1947(昭和22)年、多くは1950(昭和25)年代になって公開されたものです。アメリカ版喜劇はこうしてハリウッド映画により輸入され、例えば「凸凹」シリーズなどはアメリカ、ユニバーサル映画のドル箱的存在でありましたが、日本においても実に20作を越えるシリーズが公開上映され、戦後のスクリーンを大いにわかせました。日本の喜劇・コメディのルーツの一つはここにあるかも知れません。
映画ポスターからみえるもの
(講演会の会場には、展覧会に出展されている『バンビ』と『太陽がいっぱい』の
オリジナル・ポスターと日本版のポスターが運び込まれ、ステージ上に展示された。) 田中 健氏 (KENT COLLECTION) 『バンビ』は、戦時中の1942年に製作されました。実はこの映画、アメリカの国策として 国が資金提供してつくられたのです。 ルーズベルト大統領は「戦争で心がすさんでいる子供たちにやすらぎをあたえる映画を」とディズニーに製作を依頼しました。 また、同じようにルーズベルトは、化粧品のマックスファクターの社長にも新商品の開発を依頼しました。
マックスファクターの場合は、「これから戦場に向かう戦士たちが 見送りに来た女性たちを見て、必ず帰ってくるぞと思わせるような化粧品づくりを」とのことです。 バンビのアメリカのオリジナル・ポスターには、この作品のいろんなシーンがちりばめられ、子供だけでなく家族みんなで楽しめる構成になっています。
しかし日本版のポスターでは、バンビという主人公のキャラクターをメインにし、かわいらしさだけを前面に出しています。その上、文部省特選映画というお墨付までポスターになうち、子供の教育映画としてPRしようとしました。
このようにポスターだけを見ても、映画をどう人々にしらしめるか、日米の違いが見えてきます。 『太陽がいっぱい』のフランスのオリジナル・ポスターと日本版のポスター。
フランスのオリジナルでは、貧乏青年が成り上がっていこうとするストーリーがわかるようにつくられていますが、日本版では主人公のアラン・ドロンをフィーチャーする事で、明るいラブ・ストーリーのようなポスターづくりがなされています。
西村美香氏
写真左、今回の展覧会のディレクター
京都精華大学美術学部非常勤教員、デザイン史担当 映画について深く知っているわけでもない私ですが、専門であるデザインの面から映画ポスターという広告に着目しました。
今回、田中さんに全面的にご協力いただいて出展された1950年代のポスターを眺めると、いろんなことに気付かされておもしろいと思います。 50年代のポスターは印刷技術の関係もあって、写真とイラストレーションが融合されたものが多く見られます。
俳優は写真ですが、背景はイラストレーションであったり、パッと見は俳優は写真ですが、よく見るとまつげが手描きであったり、ターバンだけが手描きであるポスターもあります(『虹を掴む男』)。 田中さんが取り上げられた『バンビ』や『太陽がいっぱい』のように、作品だけでなく、映画館や配給会社の事情など、作品にまつわる様々なことがわかるポスターもあります。


映画に生き続けた田中さんのお父さん
田中 健氏 (KENT COLLECTION)
父親は、西宮で映画館『今津文化』をオープンさせ、映画産業の斜陽時期に直面すると、
「テレビでしない映画をする」とぼくに言って18歳未満お断りのアダルト映画も上映するようになりました。
そのため、僕のあだ名は小学生の時から大学生になるまでアダルト映画ゆかりのエロチックなものをつけられてしまうはめになりました。悔しい思いもしましたが、そのおかげで今津文化は生き残れました。 中学2年の頃、東京オリンピックをテレビ中継で見て感想文を書くという宿題が学校で出されました。
当時、父親は「テレビは敵だ」と常々言って、テレビを見せてくれるどころか買ってもくれませんでした。
「宿題のおかげで、ようやくテレビが買ってもらえる!」と思って、父親に言ってみると、
「市川昆監督が撮った東京オリンピックの映画がもうすぐ公開されるから、先生に頼んで、おまえだけ宿題の提出を遅らせてもらえ!」と言われ、テレビを買ってもらえる日はまた遠のきました。
でも、市川監督の作品は、東京オリンピックのドキュメンタリーというのでなく、東京オリンピックに出場した選手たちの躍動する汗や足、筋肉を撮った作品でした。
それを観て感想文を書いて提出すると、先生は不思議な顔をしましたが、作文は評価されみんなの前に張り出されたのです。

震災後の『今津文化』の活動
(田中さんが1995年12月まで営業されていた西宮の映画館『今津文化』の資料として、
サンテレビで放送された阪神大震災復興番組「神戸通信 がんばっとうで!」のビデオを上映。) 田中 健氏 (KENT COLLECTION) 1995年1月17日、阪神大震災が起こりました。
西宮の今津は、町内で28名の方が亡くなられ、悲惨な状況でした。 阪神今津駅の近くにあった私の映画館『今津文化』でも、4台ある映写機がすべて倒れ、
1台ずつを4人の大人で起こそうとしてもだめで、6人がかりでやっと1台が起こせるほど。
赤い“全壊”カードをもらうほどの被災状況でしたが、「黄色の半壊カードにしてくれ」と市にお願いしました。
全壊なら行政からお金をいただけますが、映画館としては営業できない。こんなときだからこそ、娯楽の王者、映画をと思い、どうしても開けたかったんです。
被災した館内につっかえ棒を30数本も入れて、ジャッキで傾いたところを補強しました。 そして、地震後1ヶ月足らずで映画館をオープンさせました。2館あった映画館のうち1館を救援物資の倉庫そして避難所として提供し、もう一方を上映館として開放したのです。
映画館としては、石原裕次郎主演の日活の昭和30年代ものの映画や、「青い山脈」などといった石坂文学の軽いタッチの映画を上映しました。
上映していると、お客さんはやってきますが、みんな3~5分いるだけで、帰り際に「ほんまに映画をやっててんなぁ…」とつぶやくように言い残し、また友人・知人を20人近く連れてやってきました。でも、その20人もまた同じことを口に…。
昔、西宮には19軒の映画館がありましたが、震災前ではうち1軒きりとなってました。「こんなときでも映画を上映してる」、そして映画の空気をみんなに味わってもらえたと満足しています。 震災後はそんな映画館でしたが、ボランティア活動の拠点でもあったわけです。地震の緊急対応のラジオ局として半径100メートル範囲なら届くミニFM放送局を開設したり、「鬼太鼓座」「日光猿軍団」など多数の興行(もちろんこの方達もボランティアで来てくださいました)を被災地に招聘するイベント実行委員会もここで組織されました。夏にはイベントとしてオバケ屋敷もやりました。 これらの活動は「阪神・淡路大地震復興協会」の設立に結びつき、この会は現在も兵庫県政の支援を受けるボランティアグループとして、心のケアにお役に立てる事業展開を目指して活動を続けています。
これらは現在、私のライフワークともなっております。
今津で映画館がやっているとニュースでよく取り上げられたおかげで、神戸方面からも多数の問い合わせがきました。
でも神戸から今津まで来てもらうのは大変なので、こっちから16mmの映写機をもって上映しにいきますと言ったんです。
フィルムは宝塚の手塚治虫記念館の協力で無償でから3本お借りすることができました。
震源地の淡路島北淡町から神戸市の長田区・東灘区、芦屋市、西宮市、宝塚市などをまわって、23ヵ所で移動映画館として映画を上映しました。 この時、映写機は1台しか持っていけなかったので、途中でフィルムを掛けかえなければいけません。その掛けかえの間、ボランティアで来てくれた幼稚園の先生が子供たちにお遊戯をしてくれたんですが、「子供たちは2才ほど幼くなっている」と言われました。
普通なら、人の話も聞かず騒いでいるはずの子供たちが、大人の話を一生懸命聞こうとする。それは、大人の話を聞いていないと置いてけぼりになってしまうかもしれないと
子供たちが怯えてしまっているからだと言われました。 映画を上映するとき、気をつけたのは明るさのことです。
普通は映画が始まる直前に明りを落としますが、震災で恐怖のどん底に落とされた子供たちは、暗闇をすごく怖がって泣き出してしまいます。だから映画を始めて少し慣れてから
ゆっくりと明りを落とすようにしました。 幸か不幸か震災のおかげでやっと従来の名画上映会に戻ることができうれしい限りでした。
でも無料上映会を続けていると、映画の興行組合や他の映画館にご迷惑がかかると思いましたのでやむなく閉館しようと決めたんです。(1995年12月25日、50年の歴史を誇る『今津文化』は閉館した。)

映画の歴史
田中 健氏 (KENT COLLECTION) 映画を発明したのは、エジソンです。エジソンは写真の原理を使って映画をつくりました。写真の1コマ、1コマを連続させる方式です。
映画を発明したエジソンはまず映画館ではなく、撮影所をイーストマンと一緒になってつくりました。ところがエジソンは、今の映画館のように大きなスクリーンでみんな一緒に観るのではなく、一人一人が望遠鏡のように覗いて観る方式を採用しました。この方式は、キネトスコープです。
エジソンの発明の翌年、1895年にリュミエール兄弟がスクリーン方式のシネマトグラフを発明します。 日本に映画が上陸したのは、明治29年(1896年)11月です。
神戸は花隈にあったサロン『神港倶楽部』で、のぞきからくり(キネトスコープ)方式の映画が上映されました。
上映されたのは、ストーリーものではなく、「銃を撃つ」「トランプ」「縄投げ」といった1分ほどの実写映画です。
一人一人が観るタイプなので、なかなか観れなくて、最初は11月25日から27日まで3日間の予定でしたが延長され、12月1日までの1週間興行となったのです。現在、12月1日が映画の日とされているのは、明治29年の上映会の最終日を記念しているのです。 京都では、明治30年(1897年)、実業家の稲畑勝太郎がフランスからシネマトグラフの機器とフィルムを持ち帰り、小松宮殿下に初めて映画をおみせしました。またその翌年に大阪では、日本初となるリュミエール方式での映画上映が行なわれました。
「うちこそが日本映画発祥の地」と言う地域が全国で4~5ヵ所くらいあるのは、そんなわけなんです。 映画がかつて活動写真といわれたのは、神戸新聞の前身の新聞社が新聞記事で「活動、写真のごとく」と書いたからです。

 

展覧会

展覧会ポスターリスト 

センチメンタル・ジャーニー
ローマの休日
太陽がいっぱい
バンビ
わんわん物語
ラテンアメリカの旅
怪獣王ゴジラ
ゴジラ
モスラ
腰抜けニ挺拳銃
腰抜け大捕物
腰抜け千両役者
腰抜けモロッコ騒動
腰抜けMP
腰抜け二挺拳銃の息子
ごくらく珍商売
ごくらく珍爆弾
ブロンディ子守の巻
ブロンディ仲人の巻
ブロンディどろぼう退治
ダニー・ケイの新兵さん
ダニー・ケイの牛乳屋
虹を掴む男
凸凹カウボーイ
凸凹幽霊屋敷
凸凹殺人ホテル
凸凹闘牛の巻
世紀の女王
悩ましの女王
水着の女王
マルクス兄弟珍サーカス
シンガポール珍道中
陽気な幽霊
氷上円舞曲
恋は青空の下
カラミテイ・ジェーン
僕は戦争花嫁
アダム氏とマダム

講演会の概要

「映画ポスターと社会・時代・文化」展 講演会の概要 1999年4月13日(火) 13:00~15:00
京都精華大学 明窓館 アートホール
講師/田中 健氏(KENT COLLECTION)

映画ポスターからみえるもの
田中さんのポスターコレクション
映画に生き続けた田中さんのお父さん
震災後の今津文化の活動
映画の歴史
映画産業の現状

 


映画ポスターからみえるもの
(講演会の会場には、展覧会に出展されている『バンビ』と『太陽がいっぱい』の
オリジナル・ポスターと日本版のポスターが運び込まれ、ステージ上に展示された。) 田中 健氏 (KENT COLLECTION) 『バンビ』は、戦時中の1942年に製作されました。実はこの映画、アメリカの国策として 国が資金提供してつくられたのです。 ルーズベルト大統領は「戦争で心がすさんでいる子供たちにやすらぎをあたえる映画を」とディズニーに製作を依頼しました。 また、同じようにルーズベルトは、化粧品のマックスファクターの社長にも新商品の開発を依頼しました。
マックスファクターの場合は、「これから戦場に向かう戦士たちが 見送りに来た女性たちを見て、必ず帰ってくるぞと思わせるような化粧品づくりを」とのことです。 バンビのアメリカのオリジナル・ポスターには、この作品のいろんなシーンがちりばめられ、子供だけでなく家族みんなで楽しめる構成になっています。
しかし日本版のポスターでは、バンビという主人公のキャラクターをメインにし、かわいらしさだけを前面に出しています。その上、文部省特選映画というお墨付までポスターになうち、子供の教育映画としてPRしようとしました。
このようにポスターだけを見ても、映画をどう人々にしらしめるか、日米の違いが見えてきます。 『太陽がいっぱい』のフランスのオリジナル・ポスターと日本版のポスター。
フランスのオリジナルでは、貧乏青年が成り上がっていこうとするストーリーがわかるようにつくられていますが、日本版では主人公のアラン・ドロンをフィーチャーする事で、明るいラブ・ストーリーのようなポスターづくりがなされています。

 

西村美香氏
写真左、今回の展覧会のディレクター
京都精華大学美術学部非常勤教員、デザイン史担当 映画について深く知っているわけでもない私ですが、専門であるデザインの面から映画ポスターという広告に着目しました。
今回、田中さんに全面的にご協力いただいて出展された1950年代のポスターを眺めると、いろんなことに気付かされておもしろいと思います。 50年代のポスターは印刷技術の関係もあって、写真とイラストレーションが融合されたものが多く見られます。
俳優は写真ですが、背景はイラストレーションであったり、パッと見は俳優は写真ですが、よく見るとまつげが手描きであったり、ターバンだけが手描きであるポスターもあります(『虹を掴む男』)。 田中さんが取り上げられた『バンビ』や『太陽がいっぱい』のように、作品だけでなく、映画館や配給会社の事情など、作品にまつわる様々なことがわかるポスターもあります。

田中さんのポスターコレクション
田中 健氏 (KENT COLLECTION) 私が所有している3万点ものポスターコレクションは、もとはというと父親の書類袋の中からせしめたものです。
映画の配給会社、大映の宣伝部にいた父親は、よくポスターを封筒に入れて家に持って帰ってきました。その中から最初に手に入れたものは『海底2万マイル』のポスターでした。
それからディズニーの映画を中心に集め続け、とうとう集めたポスターの重みで4畳半の子供部屋が傾き、両親にばれてしまいました。 (講演会の参加者からは、「腰抜けニ挺拳銃のポスターが懐かしかった」「映画ポスターのコレクションを常時公開してほしい」との声) 15年前に神戸の北野で『映画異人館』をオープンさせ、映画ポスターのコレクションを展示していましたが、震災で破損してしまいました。今では5ヵ所の倉庫で保管したり、友人宅に預かってもらったりしています。
ポスターコレクションを映画資料として展示できるミュージアムをまた作りたいと思っています。ご存命中だった淀川長治先生も、協力してあげるよと言ってくれました。
京都では映画祭も行なわれていますので、定期的に公開してもらえればと思っています。 映画異人館をオープンした頃、お客さんたちはどんなふうに映画のポスターを見ているのか気になって、後ろからついていきながら聞き耳をたてたことがあります。
ボブ・ホープの映画や『旅情』、『カサブランカ』のポスターを見て、「この映画を見た頃は、こうこうこうだったわね」と自分の生活を振りかえるご夫婦がいらっしゃいました。
それを聞いて、余計に映画ポスターの大切さを感じたんです。 私は現在、いずみさの国際映画祭のシネマコレクターズマーケットのディレクターを務めています。
パリにある国際映画祭協会から正式に認められている国際映画祭は、日本では東京と夕張、そしていずみさのという3つの映画祭だけです。5月28日~30日、ポスター展示も行ないます。今年もにぎやかに開催されますので、一度お越しください。
(『大阪国際シネマドリーム99いずみさの映画祭』は、1999年5月28日~30日。映画上映会やシネマコレクターズマーケット、シネマギャラリーなどが行われる。)

 


映画に生き続けた田中さんのお父さん
田中 健氏 (KENT COLLECTION)
父親は、西宮で映画館『今津文化』をオープンさせ、映画産業の斜陽時期に直面すると、
「テレビでしない映画をする」とぼくに言って18歳未満お断りのアダルト映画も上映するようになりました。
そのため、僕のあだ名は小学生の時から大学生になるまでアダルト映画ゆかりのエロチックなものをつけられてしまうはめになりました。悔しい思いもしましたが、そのおかげで今津文化は生き残れました。 中学2年の頃、東京オリンピックをテレビ中継で見て感想文を書くという宿題が学校で出されました。
当時、父親は「テレビは敵だ」と常々言って、テレビを見せてくれるどころか買ってもくれませんでした。
「宿題のおかげで、ようやくテレビが買ってもらえる!」と思って、父親に言ってみると、
「市川昆監督が撮った東京オリンピックの映画がもうすぐ公開されるから、先生に頼んで、おまえだけ宿題の提出を遅らせてもらえ!」と言われ、テレビを買ってもらえる日はまた遠のきました。
でも、市川監督の作品は、東京オリンピックのドキュメンタリーというのでなく、東京オリンピックに出場した選手たちの躍動する汗や足、筋肉を撮った作品でした。
それを観て感想文を書いて提出すると、先生は不思議な顔をしましたが、作文は評価されみんなの前に張り出されたのです。

 


震災後の『今津文化』の活動
(田中さんが1995年12月まで営業されていた西宮の映画館『今津文化』の資料として、
サンテレビで放送された阪神大震災復興番組「神戸通信 がんばっとうで!」のビデオを上映。) 田中 健氏 (KENT COLLECTION) 1995年1月17日、阪神大震災が起こりました。
西宮の今津は、町内で28名の方が亡くなられ、悲惨な状況でした。 阪神今津駅の近くにあった私の映画館『今津文化』でも、4台ある映写機がすべて倒れ、
1台ずつを4人の大人で起こそうとしてもだめで、6人がかりでやっと1台が起こせるほど。
赤い“全壊”カードをもらうほどの被災状況でしたが、「黄色の半壊カードにしてくれ」と市にお願いしました。
全壊なら行政からお金をいただけますが、映画館としては営業できない。こんなときだからこそ、娯楽の王者、映画をと思い、どうしても開けたかったんです。
被災した館内につっかえ棒を30数本も入れて、ジャッキで傾いたところを補強しました。 そして、地震後1ヶ月足らずで映画館をオープンさせました。2館あった映画館のうち1館を救援物資の倉庫そして避難所として提供し、もう一方を上映館として開放したのです。
映画館としては、石原裕次郎主演の日活の昭和30年代ものの映画や、「青い山脈」などといった石坂文学の軽いタッチの映画を上映しました。
上映していると、お客さんはやってきますが、みんな3~5分いるだけで、帰り際に「ほんまに映画をやっててんなぁ…」とつぶやくように言い残し、また友人・知人を20人近く連れてやってきました。でも、その20人もまた同じことを口に…。
昔、西宮には19軒の映画館がありましたが、震災前ではうち1軒きりとなってました。「こんなときでも映画を上映してる」、そして映画の空気をみんなに味わってもらえたと満足しています。 震災後はそんな映画館でしたが、ボランティア活動の拠点でもあったわけです。地震の緊急対応のラジオ局として半径100メートル範囲なら届くミニFM放送局を開設したり、「鬼太鼓座」「日光猿軍団」など多数の興行(もちろんこの方達もボランティアで来てくださいました)を被災地に招聘するイベント実行委員会もここで組織されました。夏にはイベントとしてオバケ屋敷もやりました。 これらの活動は「阪神・淡路大地震復興協会」の設立に結びつき、この会は現在も兵庫県政の支援を受けるボランティアグループとして、心のケアにお役に立てる事業展開を目指して活動を続けています。
これらは現在、私のライフワークともなっております。
今津で映画館がやっているとニュースでよく取り上げられたおかげで、神戸方面からも多数の問い合わせがきました。
でも神戸から今津まで来てもらうのは大変なので、こっちから16mmの映写機をもって上映しにいきますと言ったんです。
フィルムは宝塚の手塚治虫記念館の協力で無償でから3本お借りすることができました。
震源地の淡路島北淡町から神戸市の長田区・東灘区、芦屋市、西宮市、宝塚市などをまわって、23ヵ所で移動映画館として映画を上映しました。 この時、映写機は1台しか持っていけなかったので、途中でフィルムを掛けかえなければいけません。その掛けかえの間、ボランティアで来てくれた幼稚園の先生が子供たちにお遊戯をしてくれたんですが、「子供たちは2才ほど幼くなっている」と言われました。
普通なら、人の話も聞かず騒いでいるはずの子供たちが、大人の話を一生懸命聞こうとする。それは、大人の話を聞いていないと置いてけぼりになってしまうかもしれないと
子供たちが怯えてしまっているからだと言われました。 映画を上映するとき、気をつけたのは明るさのことです。
普通は映画が始まる直前に明りを落としますが、震災で恐怖のどん底に落とされた子供たちは、暗闇をすごく怖がって泣き出してしまいます。だから映画を始めて少し慣れてから
ゆっくりと明りを落とすようにしました。 幸か不幸か震災のおかげでやっと従来の名画上映会に戻ることができうれしい限りでした。
でも無料上映会を続けていると、映画の興行組合や他の映画館にご迷惑がかかると思いましたのでやむなく閉館しようと決めたんです。(1995年12月25日、50年の歴史を誇る『今津文化』は閉館した。)

 


映画の歴史
田中 健氏 (KENT COLLECTION) 映画を発明したのは、エジソンです。エジソンは写真の原理を使って映画をつくりました。写真の1コマ、1コマを連続させる方式です。
映画を発明したエジソンはまず映画館ではなく、撮影所をイーストマンと一緒になってつくりました。ところがエジソンは、今の映画館のように大きなスクリーンでみんな一緒に観るのではなく、一人一人が望遠鏡のように覗いて観る方式を採用しました。この方式は、キネトスコープです。
エジソンの発明の翌年、1895年にリュミエール兄弟がスクリーン方式のシネマトグラフを発明します。 日本に映画が上陸したのは、明治29年(1896年)11月です。
神戸は花隈にあったサロン『神港倶楽部』で、のぞきからくり(キネトスコープ)方式の映画が上映されました。
上映されたのは、ストーリーものではなく、「銃を撃つ」「トランプ」「縄投げ」といった1分ほどの実写映画です。
一人一人が観るタイプなので、なかなか観れなくて、最初は11月25日から27日まで3日間の予定でしたが延長され、12月1日までの1週間興行となったのです。現在、12月1日が映画の日とされているのは、明治29年の上映会の最終日を記念しているのです。 京都では、明治30年(1897年)、実業家の稲畑勝太郎がフランスからシネマトグラフの機器とフィルムを持ち帰り、小松宮殿下に初めて映画をおみせしました。またその翌年に大阪では、日本初となるリュミエール方式での映画上映が行なわれました。
「うちこそが日本映画発祥の地」と言う地域が全国で4~5ヵ所くらいあるのは、そんなわけなんです。 映画がかつて活動写真といわれたのは、神戸新聞の前身の新聞社が新聞記事で「活動、写真のごとく」と書いたからです。

 


映画産業の現状
田中 健氏 (KENT COLLECTION) 映画は第八芸術といわれます。それは、文芸や音楽、絵画、建築、彫刻、舞踊、演劇といった七つの芸術を統合したものだからです。
有名な歌手の方でも映画への憧れは強く、映画で借金をつくってはお尻に火が付き、それをバネにして頑張っていくということも多いのです。
亡くなられた伊丹十三さんでも生前、「映画は50歳にならないと撮れない」とおっしゃっていました。無尽蔵にお金があるわけでないので、必要なものを揃えようと思うと、50歳頃になってやっといろんな人脈ができて、その人達の支援や協力によってようやく円滑に映画制作に取り組めるというわけです。映画はそれほどお金がかかったり、情熱をそそぐ芸術なのです。 日本の映画館は最盛期に8,000館ありましたが、現在は1,800館にまで減っています。
最近では複数の映画館が一つの建物に並立するシネマコンプレックスが日本でも増えてきています。ワーナー・マイカルの調査によると、アメリカでは1万人につき1軒の映画館が妥当とされています。しかし人口40万人の西宮では、今津文化がなくなって1軒も映画館がありません。 元気のあるアメリカのハリウッドでは、200~300億円の予算で映画が作られています。
確実に成功するであろうスピルバーグの映画には、マネーゲームのように投資家が殺到します。制作スタートから1年以内で配給収入や興行収入といった数字が出て、投資家は銀行に預けるより、確実に利回りのいいビジネスとして映画をみることになります。
そんなアメリカであってもコッポラのように、1本の映画の不振で自社に大打撃を被るというリスクもあります。
日本では映画製作費はせいぜい数億円が上限だと思います。現在、映画館に足を運ぶ人口は国内で年間延べ1億5千万人。1億2千万人の日本人全員が年に1回ちょっと映画を観る程度です。なおかつそのうちの大半が洋画の鑑賞者です。
邦画鑑賞の映画人口が少ないと言うことは、邦画の興行収益が少ないということに他ならず、それはとりもなおさず邦画の映画制作費に跳ね返ってきます。だから邦画は1本数億円止まりにならざるをえないのです。
現代人は映像に動かされています。テレビのCMなどの影響で20分ぐらいしかじっと座っていられない。どうぞ映画館でゆっくりと映画を堪能してください。
アメリカで体験したことですが、確かに彼等もビデオで映画をよく観ますが、ビデオで観ていいと思った作品は、友人達を誘って映画館に足を運んで、ちゃんとした映画で観ています。映画を文化としてとらえている表れではないでしょうか。映画制作に携わる人たちの気持ちは、大きなスクリーンの端々にまで宿っていますので、ぜひとも映画は映画館でご覧ください。